Minolta TC-1の素晴らしさは、何といっても写りの良さにある。一眼レフの単焦点レンズすら圧倒する緻密な描写力を備える。そのカリカリとした圧巻の写りは他に類を見ない。名前の由来ともなっている「TheCamera(TC)」の名に恥じない名機だ。
初めての一台でこのTC-1を選ぶと、他機種を用いた際、その考え尽くされた機能にハッとする。開発するに当たっての多くの苦労が偲ばれるのだ。技術の粋を結集していながら、それを押し売りする訳でもなく、ユーザー視点も疎かにしない堅固な意思が感じられる。まるで技術者の気迫が、このカメラを通して撮影者にも感じられるくらいに。
更にこの高級コンパクトフィルムカメラへの愛着の念は、使えば使う程に、そして今もなお高まり続けている。この分野において、王者のように君臨するカメラであることは間違いない。多くの写真家が愛用し、アラーキーこと荒木経惟氏なども使用していたカメラとして有名である。
世界最小級、一眼レフをも凌ぐ描写力が魅力。
その素晴らしい写りにもかかわらず世界最小クラスのコンパクトフィルム。まさに小さな巨人。兎に角このカメラの存在は偉大であって、いざその表現を目の当たりにすると、これを持ち歩かないという選択肢すら思い浮かばなくなってしまうほどなのである。その質量は、185gと非常に軽量。
いざ使ってみると、ミノルタ開発陣がどれほど威信をかけて開発したかが手に取るように感じられる。起動時のメカニカルな音を聞き、また美しくスマートな絞り環を操作する。ただそれだけで心が躍り、高揚するのが分かるというものである。ポジティブな感情がより良い出会いへと導いてくれる。
街を撮るスナップには最適であるし、画角もまた単焦点28mmであるところが得てして絶妙に心地良い。街を漠然と見回すくらいの視野と同等。比較的広角ではあれど、状況説明も丁度良く、説明がくどすぎない画角である。その使い心地は、撮影者の心を確実に捉えて離しはしない。誰しもが末永く愛用していくであろうこと請け合いの逸品だ。
街中で力を如何なく発揮する威圧感の無さ。
TC-1のその大きさは、ただただ小さい。世界最小級コンパクトというだけあって、名刺サイズの大きさ。 撮影に没頭することが出来る優れた性能も備え、それをポケットに放り込んでおけば良いのだという安心感も大きい。どんな場所でも、悪目立ちすることは無い。
ポケットに忍ばせておいてサッと撮っては、スッと仕舞う。それだけで、この使用法が為に生まれてきたのではないかと思えるほどに、その実力が如何なく発揮される使い方だ。特に街中ではその真価が発揮される。28mmという絶妙な画角、そして小ささが撮影をよりポジティブなものにしてくれる。
このカメラは威圧感がない。おそらくではあれど、スマートフォンで写真を撮るよりも周りの人々から嫌がられる事がないのではないだろうか。事実、旅行などにおいても周囲から白い目を向けらることが極めて少ないのだ。むしろその存在に気付く事さえ少ないのかもしれない。
もし気が付いたとしても、その無骨でいながら柔和な表情をした外観フォルムが、写真を撮るという行為の攻撃性や刺激性を和めてくれるような気さえしている。フィルムカメラの楽しみ方は、やはり何気ない日常を撮影する事。それが出来る喜びにある。デジタルでは面白みのない写真であったとしても、味わいや深みのある写真にだってなる魅力がある。
だから家族写真。記録写真。そうした思い出をフィルムで残す喜びは計り知れないものがある。デジタル写真を入り口としてフィルム写真を始めると、より写真を撮るという行為が好感的に捉えられるようになる。
メカを扱う喜びも健在。
TC-1を購入する際、アドバンテージになる理由の一つにスポット測光で露出固定(AEロック)が可能だという点が挙げられる。これにより撮影者の意図した露出が得られるようになり、より豊かな写真表現が可能になる。しかもAF仕様なのだから抜群の性能である。
レンズは、Gロッコール28mmF3.5は完全円形絞り。真円の絞り板を絞りごとにレンズの後ろへ差し替える事によって、F3.5、F5.6、F8、F16の4段階全ての絞りでとても美しいボケ、最良の描写を表現してくれる単焦点レンズだ。その表現力は圧巻という他ない。
更にはシャッタースピードは通常速くても1/350秒までなのであるが、F3.5、F5.6の2段階の絞りでのみ発動する超露出制御という技術によって、例え露出オーバーであっても1/700秒まで使用することができる。この性能はカメラグランプリを受賞した程の評価を受けた。発売は1996年でフィルムカメラとしては円熟期のもの。
ところで一眼レフの中で、同様に名機とされるNikon F3であるが、その性能は丁度それをいじっている時の感覚に近い気がしている。いずれの機種も絞り優先AEを搭載している点も大きい。それでいながら、この極小本体にAFまでも搭載しているのだから感嘆するしかない。フィルムカメラ独特のメカを扱っている喜びを感じながら、それでいて機械制御の安泰さも享受できる最高のカメラだ。
一眼レフに名玉と呼ばれるレンズを同時に持ち歩いたとして、TC-1の圧倒的な描写力はそれらと見紛う程。むしろ一歩先を行く表現性を備えている。だからこそ、常に持ち歩いていたくなる。
ミノルタTC-1は、ミノルタの光学技術を結集したGロッコール28mmレンズを搭載し、単焦点レンズ付き一眼レフと同等以上のきれの良い画質を、名刺サイズのコンパクトなボディで実現する35mm絞り優先AE超小型オートフォーカスカメラです。
本機の特徴 ●いつでも気軽に持ち運べる超小型ボディ ●単焦点レンズ付き一眼レフと同等以上のきれの良い画質 ●高級感のあるチタンカバーボディ ●スナップ撮影から撮影意図を活かした撮影まで楽しめる最新機能
Minolta TC-1 取扱説明書 前文より
取り扱い説明書に明記されたコンセプト通りの名機。記述には何ら偽りがなく、むしろ控えめな表現である。思い出を残す。家族写真やスナップ写真、本格的な風景。あらゆる使い方でマルチに活躍する解像感を手にすることが出来る。
Minolta TC-1の作例
─ Minolta TC-1 ─
『思い出はいつだって、そこにある。朧気な記憶は、確実な形になって、永久に心に呼び起す。いつもその手にある、大切なカメラと写真にて。』
TC-1の使い方を徹底解説
手のひらサイズでとても持ちやすい。この本体に35mmフィルムが入るのだから驚きだ。
ファインダー内部ではシャッタースピードやピント位置。また不適正露出などを直感的に知ることが出来る。上記の状態であれば、125と30という数字が点灯しているので、1/125秒から1/30秒の間のシャッター速度であると認識できる。またピント位置は無限遠である。もしも左の緑●が点滅していれば、不適正露出である事を示す。
特に起動時のレンズ駆動がとても気に入っていて、何度操作しても飽きる事がない。こうしたところにもTC-1を持ち歩く楽しさがある。
とても簡単なフィルム装填。自動巻き上げで安心。
その使い方は非常に簡単だ。フィルムを装填するには、開閉レバーを下に引き蓋を開ける。そこにフィルムを装填し、蓋を閉める。たったこれだけで簡単に撮影が可能になっている。
撮影が終われば、独りでに自動巻き上げが成される。巻き上げ音が止まるのを待って蓋を開き、フィルムを回収するのみ。
絞りの操作のクリック感が心地良い。
レンズの絞り値の変更の仕方。レンズ上部で絞りを操作する。
絞り環をスライドさせる。カリカリっとしたクリック感が絞り値ごとにあって、スライダーの感じも滑らかで心地良い。これを操作するだけでも面白いのだ。
電池交換は底部レバーで。電池はCR123A使用。
電池交換の方法。底面の蓋を開ける。
使用する電池は、CR123A。電子制御のカメラであるにも関わらず、とても電池は保つ。1年以上は使用しているものの、未だ電池切れの兆候は無い。この点も信頼感が置ける部分である。
デジタルカメラが主流となり、ミラーレスが今後の主流となりつつある今日、こうした事も大きなメリットではないだろうか。
ちなみに上部のダイヤルを回せば、様々な操作が可能。
三脚ネジ穴も付いているし、セルフタイマーも可能。簡易ストロボまでたける。これらは家族の記念写真にとってとても素晴らしい機能だ。こうして見るとフィルムカメラはこれ一台でも事足りるという実感がある。
フィルム確認が容易な窓。DXコードに対応。
意外と便利なのが、フィルムの存否確認用の小窓の存在。これがある事で、装填されているのに感光させてしまったり、装填していないのにシャッターを切ってしまったり、そうした失敗を減らすことができる。またフィルム側のDXコードにもしっかり対応。そこからISO感度などの情報を読み込み、自動で設定される事も失敗を減らすことに繋がっていて嬉しいところである。
小窓からフィルムが確認できる事の利点は非常に大きい。比較的古いカメラにはこうして確認できるすべがない為、フィルムケースの紙を挟み込んだりしなければならなかった。このワンポイントの小さな配慮が、ユーザーにとっては大きな恩恵となるのである。
レビュー:TC-1は妥協しない。王道を極めたカメラ。
普段から一眼レフを扱う熟練者からするとコンパクトカメラを持つことはある種の妥協のような行為として捉えられる事も往々にしてある。その軽快さと引き換えに描写力や操作性に対する一抹の不安や不満が深層心理に反映されるのだ。しかしこのカメラに関しては、それが一切感じられることがないばかりか、むしろTC-1を持ち歩かぬ事こそが妥協であるとさえ思えてくる。
まさにThe Cameraの名を冠するに相応しい、王道を極めるカメラなのである。そんな素晴らしい技術が込められた精密機械であるが、その信頼のおけるのは描写性や携帯性だけではない。信頼性も凄まじく特筆すべきものがある。あまり声を大にしては言えないが、ヘビーな使用、多少の衝撃や水没にもびくともしない程の精密さ、頑強さを備えている事もその証左なのだと思える。
初めてのフィルムカメラとしてもおすすめ
往年の高級コンパクトフィルムカメラ群は製造を終えた昨今、再び人気が沸騰しているようだ。今やフィルムカメラを扱った雑誌も多く出版されている。もちろんTC-1はその中での評価も往々にして高い。このカメラは、誰もが認める逸品なのである。
その他、TC-1と同列で並び称されるカメラは、例えばContax T2やT3、Ricoh GR1vなどがある。いずれもその性能や味わい故に、未だ高値で取引されている。フィルムカメラをこれから始めようという人にも高級コンパクトカメラを最初の相棒として是非ともオススメしたい。
TC-1の特に優れているポイント
特に優れているのはレンズの描写力である。更に他のカメラを使っていて思うポイントとして大きいのは、ピントと別に測光を行うことが出来る点だ。これにより本格的な撮影も行えるというもの。しかもその小ささ、軽さには特筆すべきものがあり、コンパクトカメラとして何分不自由することがない。ポケットにただ突っ込み、歩き回り、そして使い倒したい。
またこのカメラは、ファインダーがとても見やすい。素晴らしく考えられた内部の表示により、撮影者が意図した構図や絞りを一瞬のうちに表現できるのである。起動と同時に意図する絞りで撮影できる事で、スナップに撮影者の「思想」までも持ち込める。その信頼ある描写力と操作感により、眼前の事象をただ切り取ることにのみ、集中することが許されたカメラなのである。
このように高水準の技術が保たれたカメラであると同時に、ユーザー視点で考えられた使い勝手良さ。これがコンセプトというものを完全に満たすものとなっている。多くの無理難題ともいえる課題を一つ一つ丁寧に検討し、突き詰めていった結果生まれたカメラである事がヒシヒシと伝わってくるものなのである。
TC-1の苦手とするところ
そんな素晴らしいカメラにも不得手な部分がある。それはシャッタースピードである。例えば私が所有するフィルム一眼レフのNikon F3は最速1/2000秒、Canon EOS 1Vは最速1/8000秒までの速度を実現している。
その点においては通常1/350秒、超露出制御時においても1/700秒のTC-1は遅れをとっている。そこで通常の晴れの日はISO100、曇りや雨などではISO400と適切にフィルムを装填する必要があるのだ。
Minolta TC-1の主な仕様
発売年 | 1996年 |
レンズ | G Rokkor 28mm F3.5 |
測光方式 | 外部中央重点測光、スポット測光(露出ロック可能) |
露出制御 | 絞り優先自動露出(F3.5、F5.6、F8、F16) |
シャッター速度 | 8秒~1/350秒(超露出制御、F3.5、F5.6でのみ1/700秒まで) |
大きさ | 99x59x29.5mm |
質量 | 185g |
電池 | CR123A×1個 |
生産国 | 日本製 |
備考 | ・本体ボディにチタン使用 ・円形板をターレットで差し替え、すべての絞りで完全円形絞りを実現 ・名刺サイズの世界最小級ボディ ・フィルムのDXコード対応 |
地方で便利な中古カメラ購入。価格調査も。
実際にMinolta TC-1を購入したのは、アマゾン。中古を買う時は信頼できる場所で買うか、大手の通販サイトで購入するのが一番であると思う。
アマゾンの場合は、「Amazon.co.jp が発送します」と表示されている出品者の商品を購入するほうが良い。そうすると何か起こった時に返品手続きも容易にできるので比較的安心だ。中古市場の場合、価格も変動し、品質もまちまちなので逐一チェックする必要がある。
コラム:フィルムカメラTC-1を巡る旅路
昨今様々な分野のものがアナログからデジタルへと姿を変えた。それらは時代の要請であるとはいえ、その急進的な流れに抗うかのように、旧来のアナログへの羨望もまた逆進的で新たな潮流を生み出さんとしている。
少なくとも物理的に手元にモノがあるという事が、この世にあって一つの安心感を与えてくれることに異論は少ないはずである。そしてそのことはフィルムという表現についてもまた同様。懐古主義的に私の心を動かす事になった。
特にTC-1は格別な思いがあり、最後に残す写真機を1台選ぶとすればきっとこれを選ぶであろうとさえ思える。それほど私にとっては、価値あるものとして存在しているのである。
勿論カメラというものは、道具である。道具であるからには用途に応じて様々な種類のものが必要になるのは当然の帰結というもの。野球をするに当たってはやはりグローブが必要であって、またポジションに応じてもまたそれぞれのグローブが存在しているというもの。
カメラもまたそうした一面を持っている事は間違いのない事実である。
ところで思い出写真といえば、一昔前までフィルムを現像し、それをプリントし、各家庭で大切にアルバムとして残されたものであった。一度大掃除をしようものなら何処からともなく出てきたソレに懐かしさを感じながら時間を奪われたものである。
とはいえ現代においては、何時でもスマホに保存された写真を眺めることも可能となった。それでも思い出としての記憶は、アルバムという存在を超えるに至らないように感じてしまうのだった。
重要な事は、その思い出の時間、その場所にカメラが存在していなければならないという事なのである。そうすると持ち運びやすさというのは何にも代えがたい重要な要素。しかも誰が使っても失敗の少ないものである必要がある。
家族や友人が集うその時その場所で、フィルム写真が撮れるという事がどれほど素晴らしい事なのであろうか。そうして鑑みるとTC-1は唯一無二、最高の思い出と記録のカメラであるということが出来る。これがまさに重要な事なのである。
つまりこのカメラは、思い出を記録するという用途にとって、最良の存在であるということが出来る。
ところで芸術としての写真というものも存在する。こうした用途を不意に意図したとしても、彼はそれをこなすポテンシャルは秘めている。それほど本格的なカメラなのである。
そういえば車というのもオートマチックやマニュアルがある。いずれも目的を達することが出来るとはいえ、手段に拘りや楽しみを見いだす事が出来るマニュアルは格別の意味を持たせることが出来る。
写真においても自動露出とマニュアル露出という方法がある。写真を撮るという目的を達するにあたり、その手段の細部にまでその人の意図を反映させられるかどうか。それは格別の意味を見いだすことに繋がる気がしている。
TC-1は、絞り優先の自動露出しか選択の余地がないとはいえ、手段の如何を問わず、目的を達するという点において、最高の仕事を成してくれる存在である。
そしてフルオートやフルマニュアルとは異なり、その中間に位置する心地良さ。絞りを意図できることは、写真という表現に少なからず、その時の撮影者の意思を反映できる。
つまり単に「撮れていればなんでもよい」とするものでもなく、その過程を愉しむことが可能な”ザ・カメラ(TC)”なのである。道具として洗練されていればこそ、その存在は頼もしい。
ところで私の考えにおいては、カメラという存在は、その場その空間で相応しい佇まいを要する。つまりTPOを考慮せずにはいられないのである。ただしこのTC-1という写真機にはその点を取っても素晴らしく万能である事が私の所有欲を大いに満たしている。
フォーマルでありながらカジュアルでもある。更にその存在感は目立ちすぎず、その場その場の状況において好ましい有様をしている。つまり何処へでも持ち歩きたくなるというものなのだ。
周囲に与える違和感や威圧感は、カメラとして最小限に留められているばかりか、むしろ皆無であると言っても良いほど。忍者のように彼は周囲に馴染み、溶け込んでいく。
ブログ:中津の城下町×ミノルタTC-1
城下町・中津を堪能する。ときに大名に、ときに庶民に、ときに唐揚げに思いを馳せる…。日本全国、古い町並みやその余韻が残されている場所は数多くある。そんな歴史の残り香を感じながら歩くという行為は素晴らしく面白い。
そんなとき、少なくとも街撮りの強い味方になるのが、コンパクトフィルムカメラTC-1だと思える。いやスナップを撮り歩きたくなるというのが正解だ。フィルムPREMIUM400の一本分で、城下町の雰囲気を捉える。
日常を撮り歩くと、その瞬間が記録、記憶される。今という時間は常に歴史の一部分になっている。あの街角もきっと将来、その姿を変えているに違いないのである。何でもない、当たり前の風景のはずが、きっと未来では貴重な財産として価値を見出される時が来る。
このカメラでは気負うことなく、ただあるがままに世界を記憶しておきたい気持ちになる。
アナログ派とデジタル派の趣向的逡巡
上記でも少し述べたが、いわゆる懐古主義的アナログと合理主義的デジタルについて思いを巡らせてみよう。ここではアナログとはフィルム。デジタルとはセンサー。そうした位置付けでカメラについて述べたい。
結論として、私はこのどちらにも存在意義があるのだと考え、両立する使い方を模索し続けている。
フィルムについて考えると、それはより温かみがあるものだと思える。実際の光をフィルムに感光させ、化学反応によってその情景を焼き写すのである。
それはつまり「自然」の働きに依るところが大きい。また色に関しても化学反応としてムラを生み、必然的に混じり合うことを許容する。得てしてその写真は偶然性の産物となるのである。
対してデジタルの方はといえば、どちらかといえば無機質な印象を拭えないのである。光をセンサーを通して電気信号に変換し、また色同士はお互いに隔絶された状態で分析され、表示される。
これはまさに「人工」的で完全なる絵作りであるといえよう。そこに生み出される写真は必然性の産物として存在する事となる。まさに合理性や理性の賜物である。
写真芸術として、撮影者の意図を可能な限り(出来ることなら完全無欠に)実現しようとするならばデジタルという手法はその近道になりうるのである。そしてその思想は、西洋芸術としての価値観に沿っている。
ただし他者があって初めて完成される美学を岡倉天心は茶の湯の精神であると考えた。そしてこの考え方こそ日本的であるという。そのように考えると、フィルムという手法はさながら、偶然性を愉しむ日本的美学に沿った表現法だということもできよう。
私はこのように表現の違いという部分についても高い関心を寄せている。
フィルムよりもデジタルであるとか、デジタルよりもフィルムであるとか。考えようによってはいくらでも逡巡することは出来る。
しかし、いずれも表現方法として存在する以上、その多様性と選択肢が失われるのは途轍もなく惜しいものである。
PeakDesignのストラップとの相性の良さが異常。
ところで、意外にも重要なポイントとしてストラップの存在がある。ストラップは勿論、転落防止の役割。しかも手振れ対策にもなるのだから信頼感が高いものを使いたい。同時に使い勝手が良いものである必要もある。収納の際には邪魔にならないという部分も大事。
そこで私が使用しているのは、PeakDesignのカフリストストラップ。これはとても使い勝手がよく特にオススメ。一個購入すれば、あとはアンカーを付けたカメラ全部に使える便利さ。ただしTC-1の場合、アンカーの紐が直接通せない為に小さ目の丸環などをかませる必要がある。
TC-1を普段から持ち歩く。またはデジタル一眼レフと兼用。そうした使い方で懐刀として忍ばせ、時に大いに振るって欲しい。そんな時に彼はきっと比類なき活躍をしてくれるであろう事、間違いないのだから。