杖立温泉をさかのぼれば、約1800年ほどの歴史を持つ。昭和には「九州の奥座敷」とよばれ、その歓楽街も賑わいを見せていた。
温泉街の両側には切り立った山々が取り囲むようにそびえ、その中央を杖立川が流れる。険しい渓谷内に所せましと林立する建屋。その間を縫うように階段や歩道があり、背戸屋(せどや)とよばれる景観を成している。活力のある昭和の時代、それぞれが改増築を繰り返していった事によって形作られたものでもある。
昭和の歓楽街、杖立温泉。つげ義春と貧困旅行記。
丁度、歓楽街として賑わいを見せていた昭和40年から50年頃、漫画家・つげ義春氏もまた杖立温泉へ訪れている。彼の著した「貧困旅行記」の蒸発旅日記中に、当時の様子も幾許か記されていてとても面白い。彼の云う鄙びた(ひなびた)温泉街は、まさに非日常の世界への扉。陰鬱な日常を離れて、土地土地の湯治場に逗留する気持ちというのは、誰しもが分かり得る本性ではないだろうか。
つげ義春氏は云うのである。「自分のことばかり書いて、客観的な描写に欠け、やはり紀行文になっていないように思える。」しかし、そこに主観性があるからこそ、当時の様子を今読む者に想起させてくれるものなのである。
彼がそこに記す、宿泊した千歳館や一夜の恋模様のあったストリップ小屋は今は昔。この場所から姿を消してしまっている。ただ昭和の華やいだ歓楽街の様子を知るだけでも愉しい。小国町の幹線道路に「暴力を入れるな」との看板、その名残であっただろうか。
現在この場所は、多くの群れで泳ぐ鯉のぼりたちの姿が有名となった。全国でも同じような催しがある。そしてその発祥となったのが、鄙びた温泉街の一つ、杖立温泉である。5月の節句の前後には約3500匹の鯉のぼりが掲げられ、この季節の風物詩を見んと全国から観光客が訪れるようになっている。
華やかな温泉街も良いが、地方色豊かな「鄙びた温泉街」に惹かれる。それはバカンスというものとは異なるもので、現実からの逃避行という言葉がぴったりの場所ではないだろうか。日々何かしら泥にまみれ、馬車馬のように働く。
そんなときに貧困旅行記を読むのが良い。無機質な日常や悪夢のような現実から「蒸発」してしまいたい。場末の湯治場や歓楽街は、そんな風に疲弊した人々を飲み込んでいく懐の広さがあるのだ。彼の紀行文を読めば、頭の中だけでもそんな場所へ逃避行することが出来る。
ところでこの本は全国を満遍なく逃避行し、鄙びた温泉街を巡るつげ式紀行エッセイ。本書を片手に旅行するのも良いが、近くにある隠場を見つける事が出来るのは嬉しい所である。日々の喧騒に息がつまったら、そこへ実際に駆け込もうではないか。
漫画家、つげ義春氏とは。
つげ義春氏は、漫画雑誌「ガロ」にて寡作ながら執筆。中でも「ねじ式」は代表作で、今でも有名な作品となっている。水木しげる氏のアシスタントとしてアルバイトしていた事もある。現在は、あまり出歩くことも無く、不安神経症で目も悪い、印税収入で生活をぎりぎりと賄っていて、細々とした暮らしをしているようである。
ガロは、ガロ派と呼ばれるほど。アンダーグラウンドな個性的、前衛的な作品を多く掲載していた雑誌で、当時の編集スタイルは商業ベースを無視したもの。「面白かったら何でもよい」との方針を貫き、「面白主義」と称していた。つげ義春、みうらじゅん、白土三平、林清一、蛭子能収、杉浦日向子、水木しげる等、多くの個性派漫画家を発掘、輩出している。サブカル系と呼ばれる漫画を代表する雑誌である。
鄙びた温泉街の良さとは。
ところで彼の提唱する、鄙びた温泉街の良さというのは一体何であろうか。それはやはり「貧困旅行記」の中で記す蒸発旅日記が発端となっているはずである。日常である都会を離れて、地方で全く違う生活を始めたくなる衝動。
現地の人として暮らそうにも、言葉や身なりが異なり、馴染めないような精神不安に苛まれる。旅の者でも怪しまれず、人の目にもつかないような歓楽街に身を置き逗留する。そこに蒸発したい人間の居場所があるのかもしれない。
やむにやまれぬ漂泊の思いを胸に、鄙びた温泉宿をめぐり、人影途絶えた街道で、夕闇よぎる風音を聞く。窓辺の洗濯物や場末のストリップ小屋に郷愁を感じ、俯きかげんの女や寂しげな男の背に共感を覚える…。
新潮社「新版貧困旅行記」つげ義春著 巻末より
水木しげる氏のアシスタント歴は4、5年ほどの事。つげ氏は当時、忽然と姿を消して皆を心配させ、「蒸発」した後にふらりと帰ってきた事があった。そんな事であるから、この蒸発旅日記も水木プロダクションでアシスタントをしていた時の回想であると思われる。
ケの日の杖立温泉をあるく。
平成の杖立温泉は、鯉のぼり祭りの時期(ハレの日)とそうでない時期(ケの日)とで、その姿を一変させる。昭和の時代のノスタルジーを特に感じるには、このケの日に訪れてみるのが良い。静かな温泉街は、鳥の囀りと川のせせらぎのみが聞こえる場所。非日常の悠久に浸ることが出来る。
谷あいに位置する場所であるから、太陽が陰るのも特に早い。背戸屋の中を歩き回っていると、ますます建物にも日が遮られる。必然的に夜長の町であると言い換えても良い。そのような環境が、かえって温泉街としての情緒を引き立たせる。
風情ある背戸屋で、昭和のノスタルジーに浸る。
写真は全てカラーネガフィルムで撮影している。使ったカメラは、コンパクトフィルムのミノルタTC-1とフィルム一眼レフのニコンFEである。フィルムは街の情緒を見事に写し取る。
つげ義春氏の写す、スナップ写真。
貧困旅行記の中において、つげ義春氏も多くの写真を掲載している。そうした当時のスナップ写真を見ていると、変わらないものと変わったものを感じることが出来る。一度失われたものは、元に戻ることは無い。それは時間も同様である。
スナップ写真の良さは、なんでもない風景が後になって見返すと、貴重な歴史としての記録となっている事でもある。ただここで重要なのは、写真の質なのである。何でもない魅力を相手に伝えるには、それなりに技術を要するところだと思える。そうした観点で、つげ氏の写真を見ると非常に的確で構図も素晴らしい。彼の持つ特有の感性をひしひしと感じるのである。
氏は、全国の鄙びた温泉を撮り歩いている。ちくま文庫から出版されている「つげ義春の温泉」という本には、沢山の写真が並んでいる。氏は全ての写真をフィルムで撮影。主にレンジファインダー、キヤノンⅣ LやキヤノンPを使用し、時にはニコマートFTNも使っていたとのことであった。こうした温泉写真や原画は評判もよく、展覧会でも販売していた様だ。
ハレの日の杖立温泉に色めく。
鯉のぼりが掲げられると一挙に街全体が色めくのである。しかもこの街は普段、コンクリートの鼠色がとても良い味わいを出している。そこが眩いばかりの虹色に彩られるのだから、全体のコントラストが一挙に映え渡る。
軽トラが停車していて、更に風情が増していた。周囲にある山々が初夏の新緑に芽生え、街を包み込むように微笑んでいる。黄色や橙色、そして緑色。下から見上げた鯉のぼりたちは、青き空をまるで湖で自由に泳ぎ回るよう。まさしく水を得た魚といった風情である。
五月の節句を彩る、平成のハイライト。
写真は全てカラーネガフィルムで撮影。使用したカメラは、コンパクトフィルムのコンタックスT3とフィルム一眼レフのキヤノンEOS7sである。フィルムは春の植物の変化を見事に写し取る。
街の魅力をフィルムスナップで写し取る。
ところでスナップ写真で注目すべきな点は、心象に写った美しさや面白さをストレートに表現することである。観光の目的地に行って、ただ目的のものだけを写すだけでは少し物足りない。路地裏に入り込んで撮影してみたり、一瞬の出来事を写真に落とし込むことが出来れば最高である。
その場所そのもの、そこで暮らす人々、そうしてそこに息づいた生活を落とし込むことで、スナップ写真の記録的価値は益々高まるものとなる。つげ義春氏の紀行文、そこに添えられた写真の素晴らしいところは、人と街、更に心象が同時に写り込んでいる点だ。
そうして私の場合も同様に、主観を大切にしながら魅力を断片的に切り取ることで、総体としてみると、街全体の雰囲気などが立体的に形作られていく。そのように、見直してみた時の臨場感や雰囲気までも落とし込めるような記録写真をスナップでは心掛けるようにしている。
フィルムカメラは、より肉眼の印象に近い。また記憶のイメージともピタリと重なる。許容するラチチュード(明暗諧調など)が広い為、全体のコントラストは低くなるが、自然の光の明るさや暗さを同時に落とし込むことが可能だ。その点、未だにデジタルがネガフィルムに敵わない部分でもある。
例えフィルムカメラに馴染みがなくとも、フジフィルムの「写ルンです」などで旅行を撮影するのもオススメ。家族写真など記念写真では最高の存在になるネガフィルムは、良き旅行の友になる。
コラム:日常と非日常の交差点。
日常からの逃避行で、非日常のはずの鄙びた街角。その場所も誰かにとっての日常の場所である。はたまた、日常を過ごしていたはずの場所。時を経てみれば非日常としての風景へと変化する。そうすると自分の中の当たり前が、その場その時にしか存在していない、脆く、崩れやすく、不確かなものである事に気が付くのである。
同時に世界の広さを感じ、人生を左右するような大きな出来事だと思えていたことが、極々些細な出来事のようにさえ思えてくる。日常から非日常へと移動するだけで、心身の状態を健やかに調整してくれたりもするのではないだろうか。
はたまた日常の中で培われてきた人物像。それとは無縁となり、新しい場所で新しい人物像を作り上げることが出来るような建設的な気持ちになる。そうして非日常という湯船の中に浸かっていると、過去に築き上げてきたものへの愛着も増してきたりする。居場所というのは、日常と非日常という交差点の狭間で、常に揺れ動いているのかもしれない。
スナップ写真というのは、その不確かなものを繋ぎとめようとする行為。定着、固定、または保存しようとする試みであると思う。例え面白味が無いように見えた日常が、少しの変化を経るだけで非日常としての面白さへと変化するのである。であるからこそ、これまで見慣れてきた風景、何の変哲もないような風景、それを撮影することには意味があるのではないだろうか。
日々の暮らしに追われ、例え非日常への空間移動が行えなかったとしても、写真を撮るという行為が常に変化しているはずの時空を捉える。その行為そのものが非日常への空間移動を手助けしてくれるものである。そしてそれは、居場所を見つける作業にも成り得るのである。
杖立温泉へのアクセス
■場所:熊本県阿蘇郡小国町下城
■公式:https://tsuetate-onsen.com/
ちょうど熊本と大分の県境に位置する。大分自動車道の日田ICより国道212号線を阿蘇方面へ約40分 。目の前の川沿いに無料の駐車場あり、とても観光しやすい。